2018年日语考试阅读模拟练习5
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直哉居を訪《おとな》ふ
大岡龍男
NHKの「藝談《げいだん》」の時間に、今度始めて小説家に出て貰ふことになり、語り手は志賀直哉、聞き手は小説家の尾崎一雄……これはいゝ組合せだと思つてさうきめた。(略)
もう一つ意外であつたことは志賀さんの書齋《しよさい》がしごくむぞうさで新しいものづくめであつたことも思ひのほかだつた。凝《こ》つたもの、古色蒼然《こしよくそうぜん》たる道具類……そんなものは一つもみうけられず何もかも潔癖家《けつぺきか》らしい新《しん》きの品物ばかりがそろつてゐた。勿論《もちろん》いゝ趣味《しゆみ》のだ……。
志賀さんは新しい黒いメリンスの兵子帶《へこおび》をしめ、かなり著古《きふる》した毛の夏シャツを袖口《そでぐち》からのぞかせてゐたが、著てゐる人が志賀さんなのでそれが立派にみえた。眉《まゆ》の濃《こ》い非常に志賀さんは氣高い美しい老人だつた。聲《こゑ》も人間ばなれのした綺麗《きれい》聲だつた。(略)
志賀さんの書くものがさうなようにこの人は無駄《むだ》は云《い》はない人だなとさとつた。一體《いつたい》志賀さんは短篇の作品が旨《うま》い人だが、それだけこつちも長く話してゐる人ではないと思つた。用がすんだらさつさとこの家はひきあげべき家だなと思つた。(略)
志賀さんはたえず片手に蠅叩《はへたたき》を持つて氣にしては蠅を叩いてゐた。そして蠅の死がいをつまんでは窓をあけて捨て、その手を書齋の一隅《いちぐう》にしつらへられてゐる手洗ひ場で洗つてゐた。私は蠅なんか氣にならないたちの人間だから志賀さんの叩きはづした蠅が鼻の頭に來てとまつたりしても平氣だつたが……。志賀さんは赤い鉛筆がほしかつたらしく、自分のチビた赤い鉛筆を私|等《ら》に示して、私等の持つて行つた長い赤い鉛筆を「それ僕《ぼく》に呉《く》れないかなあ……今、買つて來て貰つてるけど、もし買つて來なかつたらこれを貰つとくけどいゝかしら」
と云つたりした。まつたくさう云ふところは威張《いば》らなくつて、それで紳士《しんし》でいゝ人だなあと思つた。
やがて熱海から戻《もど》つて來た夫人がおかしわと小さい鹽煎餅《しほせんべい》の柿《かき》の實《み》を持つて出てこられ、志賀さんは夫人に
「赤い鉛筆どうしました?」
と早速訊《さつそくき》いた。夫人は微笑《びしよう》して
「アッ……買つてまゐりませんでした」
とさもあいすまなさうに叮嚀《ていねい》に挨拶《あいさつ》し、大變《たいへん》に上品なしとやかないゝ奥《おく》さんだつた。
志賀さんは私等にお菓子《かし》をとり分けて呉れ、自分も柏餅《かしはもち》をいくつもいくつもたべてゐた。
(略)
録音し終ると、志賀さんはお孃《じよう》さんや、二人の女のお孫さんを呼び皆《み》んなで録音を聞いた。
志賀老夫人は志賀さんのかたへにつつましく微笑をたゝへ頭をたれて聞き入つてゐられた。
ペルシャの壁畫《へきが》にある美人のやうな若いお孃さんも押《お》し默《だま》つたまゝつつしんでお父うさんの藝談に耳かたむけてゐた。
二人の小さいお孫さんも判《わか》つても判らなくてもおとなしく、お祖母《ばあ》さまのそばで録音を聞いてゐた。
みると志賀さんの手に私のあげた名刺《めいし》があつた。私はその名刺をどうされるだらうと眺《なが》めてゐた。」
全文を御紹介《ごしようかい》できたら、本当に面白《おもしろ》いのだけれど。湯河原と熱海《あたみ》の間にある、この家から海が見え、「志賀さんは、この海の色みたいな紺碧《こんぺき》のしま柄《がら》のそれはいい好みの着物だつた。私たちが居る間にたつた一度、志賀さんはあごの白い短かいひげを撫《な》ぜた。」
大岡先生に興味をお持ちのかたのために、経歴を簡単に書いておきます。
大岡先生は、明治二十五年四月四日、文部大臣や衆議院議長などをなさった大岡育造というかたと、芸者さんの間に、東京で生まれました。そして、育造さんの次男として育ち、慶応大学で学びました。中退です。芸者さんだった、お母さまの妹さんは、新劇運動もした歌舞伎《かぶき》俳優の市川左団次の、夫人。そして、このお母さまが、のちに実業家と結婚《けつこん》して、生まれた女の子の娘《むすめ》が、七尾伶子《ななおれいこ》さん。ですから、大岡先生は、七尾さんの叔父《おじ》さまにあたる、という事になります。
ここで、もう一つ、大岡先生についての随筆を。
劇作家の宇野信夫先生が、お書きになったものです。
「蜀山人《しよくさんじん》の狂歌《きようか》」
という題がついています。
「(略)彼《かれ》は一見、温順実直そうに見える人だが、荷風《かふう》に心酔《しんすい》して、内々|遊廓《ゆうかく》や玉の井に親しんでいた。そして虚子の弟子《でし》で、「ホトトギス」の同人でもあった。その頃《ころ》の彼の句に、玉の井にて、と題して、「涼み台遊女が読める主婦の友」というのがある。当時橋場に住んでいた私のところへ、前述の通り、彼はよく訪ねてきた。大岡氏は話なかばに突如《とつじよ》として「左様《さよう》なら」と腰《こし》をあげ、早々に帰って行く癖《くせ》があった。あとでわかったことだが、私を訪ねるのは私に用事があるわけではなく、局の車で私の所へ来て、適当に時間をつぶし、白髭橋《しらひげばし》を渡って玉の井へ行ったり、吉原へ通ったりしていたのである。
(略)その大岡氏も、今はもう八十|歳《さい》である。一人|息子《むすこ》が矢張り放送局へ勤め、山口の局長に栄転したので、今は息子と共に山口に住んでいる。言い忘れたが、大岡氏は、此《こ》の一人息子の母が亡《な》くなってからはずっと独身で、一人息子を小学生時代から男手一ツで育てた。だから、玉の井や吉原に凝っていた時分でも、文句を言う者は誰《だれ》もいなかったわけである。
今でも、時々思い出したようにハガキをよこす。気がむくと、五枚続きのハガキをよこすことがあるが、これは私にばかりではない、ほかの人にも、時としてそんなことをするそうだ。」
たしかに、大岡先生は、私にも、五枚続きの葉書やら、原稿用紙二十枚くらいの手紙を、NHKで渡して下さればいいのに、ちゃんと切手を貼《は》って、しかも、ほとんど毎日、郵便にして送って下さいました。なんで、年端《としは》もいかない私に、この写生文の大先生が、いろんなことを、あんなに、溢《あふ》れるように瑞々《みずみず》しく書いて下さったのか、わかりません。
例えば、先生が新宿に住んでらした時、先生の家の前のアパートに、女装《じよそう》をしてバーにつとめる男の人達《ひとたち》が数人、住んでいて、その人達が、午後、揃《そろ》ってお風呂《ふろ》に、どんな風に出かけて行くか、といった事、そして、こってりお化粧《けしよう》をして、女装をして、おつとめに出かける時の様子、それから、夜中に酔《よ》っぱらって帰って来る、その描写《びようしや》が、まるで、物音も、においもするように、書いてありました。「猫《ねこ》に小判」という言葉は、本当に、こういう事を言うのでしょう。面白くは読んでも、全部を蔵《しま》っておく、というような考えがないまま、大岡先生の厖大《ぼうだい》な手紙は、バラバラになってしまい、いま手許《てもと》には、何も残っていません。もしかすると、大岡先生は、私が書くことを、好きな人間だと思っていらっしゃったのでしょうか。これも、つい、この間、聞いたのですが、先生は里見《ソーヨ》京子さんに「トット様は、文章が、お書きになれるかたで、いらっしゃいます」、と、おっしゃってたそうです。私は、先生が、そんなことを考えてた、なんて、全く、知りませんでした。ソーヨも随分、先生から手紙をもらった一人です。
さっきの宇野信夫先生の随筆を読んで、思い出したことが、あります。ある日、仕事が終って夕方、帰ろうとしてた私は、スタジオのドアのところで、大岡先生に逢《あ》いました。帰り支度《じたく》をしてらしたようなので、「新橋の駅まで、御一緒《ごいつしよ》しましょうか」、と伺《うかが》いました。大岡先生は、例の手の甲《こう》で口を、かくすようにすると、こんなことを、おっしゃいました。
「この間、私が新橋の駅の近くまで参りましたら、天使のようなかたが、お呼びになりましたもので、そのかたのお家にお邪魔《じやま》して。生憎《あいにく》、持ち合せがなかったもので、拝借してまいりました。それを、今日、これから、お返しに上るんでございます」。「天使のようなかた?」「持ち合せがないから、拝借した?」私は、ちょっと、わかりませんでした。こういう事を、しゃあしゃあと、平気で私にいい、しかも、「天使のようなかた」などと形容するところが、大岡先生の面白いところでした。もちろん、あとになって、意味は、わかりましたが、その頃《ころ》、大岡先生は、もう六十歳は、とっくに過ぎていらしたわけで。このことを、宇野先生のお書きになった随筆で、三十年ぶりに、思い出した、というわけです。
昭和四十七年の十二月十一日に、大岡先生は、八十歳で亡くなりました。御自分で、亡くなる一年前に遺言状《ゆいごんじよう》を書き、その中に、ちゃんと、御自分の戒名《かいみよう》も作っておおきになりました。
「愛文院竜州居士」
この遺言状は、「桑《くわ》の実」という雑誌に、生きてらっしゃるときに発表し、一年後に亡くなりました。この遺言状の中に、「七十年の生涯《しようがい》は短かいようでいて長いものでした。天国への道ははるかで、そしてたのしいものにちがいありません。天国へ行った亡き妻、亡き子に会え、虚子先生にもおめにかかれるでしょう」とありました。
私は胸が一杯《いつぱい》になったのですが、数えてみると、このとき、本当なら「八十年の生涯は……」と、なるはずなので、このあたり、大岡先生の、いたずら心か、それとも、間違《まちが》ったのか……。「トット様、どちらへ?」と、私に、一日に何度も何度も同じことを聞いた、あの大岡先生の、不思議な、そして物哀《ものがな》しい感じが、この「七十歳」という中に、現われているようにも思えます。
大岡先生の最後の葉書の文面は、はっきりと憶《おぼ》えています。一緒に暮《くら》してらした息子さんの転任先からの葉書でした。たった、ひとこと。
「東京なんて、なにさ!」
前にはやった、松山恵子さんの歌の題名でした。
いま、ここに書きました色々な資料は「長篇小説 嫁」のモデル、大岡先生の息子さんのお嫁さんが、親切に山口から送って下さったものです。
それからもうひとつ。大岡先生と私たちが一緒に写ってる写真をここに御紹介しようとしました。ところが驚《おどろ》いたことに、私のところに一枚もないのです。山口の大岡先生の遺品の中、全部、探して頂いたけどそこにもありません。あの整理のいい新道さんのところにも、誰のところにもありませんでした。あんなに毎日、何年も一緒だった大岡先生の写真が一枚もない! 今まで全く気がつかないことでした。大岡先生は痕跡《こんせき》をとどめたくなかったんでしょうか。先生が後姿を絶対に見せなかったように。一枚もないのが不思議、と思うのと同時に、でも、やっぱり、(大岡先生らしい)と、私は思ったのです。
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