《消えた男の日記》选段分享1
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妨 害
車が目的地の近くに来るまで、二人は何もしゃべらなかった。
「もう少しだと思うわ」
と、外へ目をやりながら、咲江は言った。「夜だと何だか様子が違って見えるけど」
「そうだろう? 道は間違いない?」
「ええ。この道の先。——もう少しあるかもしれないわね」
また少し、二人は黙った。
一軒のホテルの前を通る時、チラッと二人は目を見交わした。
「何だい?」
「何よ」
少しして、二人はふき出した。咲江は、
「せっかちなこと、やめてね」
と、言った。「時代遅れって言われても、納得できる形で、そうなりたいの」
「分ってる」
と、松本は肯いた。「君の意志を尊重するよ」
「あなたって——初めて口をきいた女の子と、キスするの?」
「相手次第だろ。少なくとも、今までじゃ、君が初めてだ」
「光栄でございます」
と、咲江は微笑んだ。「——あら、火事かしら?」
遠くにサイレンが聞こえた。
「後ろから来る」
松本が、車をわきへよせて、スピードを落とした。——サイレンがどんどん近付いて、アッという間に、消防車が二人の車を追い抜いて行った。変調した音が、尾を引いた。
「——また来たわ」
「一台じゃない。こりゃ本格的な火事だな」
と、松本は言った。「通行止になるかもしれないよ」
「どうする?」
二人は顔を見合わせて、肯き合った。
「見に行こう!」
まるでコーラスでもやってるみたいに、二人が同時にそう言った。
二台の消防車が、駆け抜けて行くと、松本はぐいとアクセルを踏んだ。
「——火が見えたわ」
と、咲江が言った。「燃えているんだわ、今!」
車を停めて、二人は外へ出た。
「風がある。——危いな」
と、松本が言った。「燃え広がると——」
「待って!」
「どうしたんだい?」
咲江は、消防士が駆け回っているその向うで、もう手の施しようもなく炎に包まれている家を見つめた。
「あの家だわ」
「何だって?」
「あの駄菓子屋さんよ。〈永井かね子〉の家だわ!」
「確かかい?」
「間違いない。あの電柱の看板、憶《おぼ》えてるもの」
近所の住人たちが、次々に飛び出して来て、不安げに消火活動を眺めている。
風の向きで、時折、二人の方にも強い匂《にお》いが向ってきた。
「——逃げる仕度をすればいいのに」
と、咲江は言った。
近所の人たちが、みんな寝衣にコートなどをはおったままで、ぼんやりと火事を眺めているのが、不思議だったのである。
「こんなもんさ」
と、松本は言った。「まさか自分の家には燃え移らないと思ってるんだよ」
——まさか。自分の身には。
そうなのだ。
咲江は、父の言葉を思い出していた。
「人間は、自分だけは犯罪に縁がないと思い込んでるんだ」
いつか、父はそう言っていたことがある。
「でも、大丈夫だろう」
と、松本が言った。「本当に避難の必要があったら、消防署の人間がそう言うさ」
なるほど、よく見ていると、火は次第におさまりつつあった。もちろん、あの駄菓子屋は完全に焼けてしまっているし、両隣の家も半焼してはいるが、それから先へ火がのびることはなさそうだった。
「やれやれ、だな」
と、松本は首を振った。「しかし……。こいつは偶然じゃないぜ」
「そうね」
と、咲江は肯《うなず》いた。
分っている。——今日、ここを自分が訪れたのが原因だろう。
「君が〈永井かね子〉を訪ねて行った。そして君のアルバイト先に、脅迫電話が入った。その夜、ここが焼けた」
「つながってるわね、全部」
「それに、誰か知らないが、そいつは君のバイト先まで知っていた。君の住んでいる場所も分っているとみた方がいいよ」
「怖いこと言わないで」
と、咲江は松本をにらんだ。「心配なのは、この家にいた、女の人のことよ」
「うん。焼け出されたのかな」
「すぐには分らないわよ。この火事じゃ」
松本は腕時計を見た。
「もう十二時だ。——帰るかい?」
「そうね。ここで待ってても、完全に火が消えて現場検証になるのは明日でしょうしね」
「じゃ、送るよ」
「ええ」
——松本のミニ・クーパーで、咲江はアパートまで送ってもらうことにした。
何だか、自分がとんでもない事件に巻き込まれかけているらしい、と思った。もちろん父は知らないはずだが。
——咲江を脅迫して来た人間は、もしかすると入江があの日記帳を娘に送ったことも、知っているのかもしれない。
もちろん、父のことだ、油断してはいないだろうけど。それに、大内さんや柴田さんもついているし。
今日の出来事は、父へ連絡しておく必要がある、と咲江は思った。
夜半の道で、車は快調に飛ばしている。
いつしか、咲江は助手席で眠りに落ちていた……。
——ガクッと体が揺れて、ハッと咲江は目が覚めた。
「着いたの?」
と、目をパチクリさせたが……。
車は、スピードを上げている。
「どうしたの、こんなスピードで」
「尾《つ》けられてる」
「え?」
咲江はびっくりした。バックミラーへ目をやると、かなり大型らしい車が、すぐ後ろについて来る。
「——大分前からだ。こっちが気付いたのも分ってる」
と、松本は、緊張した表情で言った。「あんなに近付いて来てるからね」
「誰かしら?」
「分らないが——ベンツだな、後ろは。このままじゃ、とても振り切れない」
「何のつもりかしら?」
「分らないな。君の住んでる所を突き止めるつもりだったら、もっと気付かれないように用心して尾けて来るだろう。ここまでくっついて来るってのは……。気に入らないな」
と、松本は首を振った。
陸橋にかかる。下を私鉄の線路が通っていた。
突然、後ろのベンツがぐんとスピードを上げて、二人の車の横へ出たと思うと、いきなりわき腹をぶつけて来た。
小型車では、とても持ちこたえられない。
手すりにぶつかり、火花が散る。
「伏せろ!」
と、松本が叫んだ。
咲江が頭をかかえて下げる。——ガリガリとボディのこすれる音。
車が大きくバウンドした。
咲江は悲鳴を上げていた。車は、宙へ飛び出したのだ——。
「咲江!」
病院中の患者が仰天して目を覚ましそうな声を上げて、川田京子が病院へ飛び込んで来た。
「京子……。静かに!」
と、咲江が手を振って見せると、
「良かった! 生きてたのね!」
と、京子はオーバーに両手を広げて、「神様! 感謝します! ラーメン」
同室の患者たちが笑い出した。
「全くもう……」
と、咲江は苦笑した。
「どっちが、全くもう、よ。人に心配かけといて!」
と、京子は両手を腰に当て、「車の事故なんて。咲江、運転できなかったんじゃないの?」
「そうよ」
「じゃ、誰の車だったの?」
「男」
「——嘘《うそ》でしょ」
「本当」
「男って……。どういう関係?」
「うん。今のところキスまで」
京子は椅《い》子《す》を引張って来て座ると、
「それなら許す!」
と、言った。
「友だちなの、それでも? けがの具合ぐらい、訊《き》いたら?」
「生きてりゃ同じよ。その内治るんでしょ」
——まあ事実、車が土手の茂みに突っ込んだ割には、咲江は打ち身とかすり傷ですんでいた。
入院の必要もなかったのだが、一応、頭の傷の影響などをチェックしてもらうために、一日だけ入ったのである。
「明日は退院よ」
「何だ。じゃ、ハンサムな医者を引っかける暇もないのね」
と、京子はがっかりした様子。「男の方は死んだの?」
「殺さないでよ。せっかく見付けた恋人を」
「どこのどいつ?」
「——あれよ!」
と、咲江が指さす。
病室へ、松本が入って来るところだった。おでこに、派手な×印に、バンソコウが貼《は》ってある。
「やあ、どう?」
「もう百メートルだって走れそうよ」
と、咲江が言った。
「良かった!」
「車はもうだめ?」
「車なんかどうでもいい。君が大けがでもしたらと思って……」
松本が、咲江の上にかがみ込んでキスしたので、京子の方が呆《あつ》気《け》に取られていたが、
「——どこかで会った?」
と、まじまじと松本の顔を見つめたのである……。
「信じられない組合せね」
と、京子は、咲江と松本を見比べて、言った。
「何度も同じこと言わないでよ」
と、咲江は苦笑して、「別にまだ恋人同士ってほどの仲じゃないんだし」
「あら。じゃ、咲江は恋人でもない男と平気でキスするわけ?」
そう訊かれて、咲江もぐっと詰る。
「そりゃあ……。でも、私の方からキスしたわけじゃないし」
とブツブツ言っている。
「ともかく!」
と、急に松本が大声を出した。
レストランの中の客が、みんなびっくりして振り向くほどの声だった。
「——君の身が心配だ。何とか手を打つ必要がある」
と、普通の声に戻って、松本が続ける。
めでたく(?)退院した咲江と松本は、京子ともども、病院の近くのレストランに入っていた。——まあ、二人で入ったあのイタリアレストランとは大分違って、こちらはファミリーレストランのチェーン店。
もう夕方になっていたので、結構店の中は混んでいた。
「手を打つ、ったって……」
と、咲江は途方にくれたように、「まさかボディガードをつけるわけにもいかないわ。大丈夫。自分の身は自分で守るわ。ずっとそうして来たんだし」
「いいかい。電車の中の痴漢とか、いたずら電話をかけて来る変態とかじゃないんだよ、相手は」
と、松本が身をのり出す。「あのベンツを見ただろう? 奴《やつ》らは、君と僕を殺すつもりだ」
「奴らって?」
「分らないさ。でも、一人や二人とは思えないね」
と、松本は言った。
「同感」
と、京子が肯《うなず》く。「ね、咲江。まだ死ぬのは早いよ」
「私だって、死にたくないわよ」
と、咲江は顔をしかめた。「だからって……」
「まず、君のアパートは、当然、知られているはずだ」
と、松本は言った。
「どうするの? 引越すの? そんなお金、どこにもないわ」
「僕のマンションに来ればいい。部屋はあるよ」
咲江は、キュッと唇を結んで、首を振った。
「だめ。そんなこと、できない」
「誤解するなよ。何も僕は君のことを——」
「それでも、だめ。あなたを信用しないわけじゃないわ。でも、私、やっぱり古いの。その決心もつかない内に、一緒に暮したりするべきじゃないと思う」
咲江は、きっぱりと言い切った。
「石頭」
と、京子が、からかう。「ね、松本君。こんな頭の固いの放っといて、私と暮さない?」
「ちょっと、京子——」
「冗談、冗談」
と、京子は笑って言った。「じゃ、こうしよう。咲江、うちのマンションおいでよ」
「京子の家? お宅、一軒家じゃなかったっけ?」
「そうよ。でもね、マンションを三つか四つ持ってて、人に貸してるの。その一つが、まだ借り手がなくて空いてるはずよ」
「そりゃいいや」
と、松本が肯いて、「奴らは、僕のことだってすぐに調べるだろう。そういう、表に住所の出ていない所が、一番身を隠すには向いてるよ」
「身を隠す、って……」
と、咲江は当惑して、「大学はどうするのよ」
「死んじまったら、大学へも行けないんだぜ。そうだろ?」
まあ、咲江としても、その松本の言葉は正しいと認めないわけにはいかなかった。
「僕は、あのラテン語の日記帳を、せっせと読む。君はこの一件が片付くまで、大学へ出て来ちゃ危いよ」
「——授業、聞きたいのに」
と、咲江がむくれると、京子がため息をついて、
「代ってあげたいわね。できるもんなら」
と、言ったのだった。
「ともかく、今は食べよう」
料理が来て、三人は食べ始めた。——咲江は、自分の身に危険が迫っていることを、頭では分っていても、何となく実感できなかった。
むしろ、自分と松本の間がこれからどうなるのか、そっちの方が、気にかかっていたのである……。
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