日本教科书上从不写:日本BL历史事件薄
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■日本史における同性愛の歴史は古くから存在していた
■日本史中的同性恋历史从很早之前便开始存在
明治時代初頭の一時期より前の日本には、同性愛を制限する法律は存在せず、場所や状況によっては男色はほとんど公然と行われたといわれる。一方、女性の同性愛というのは秘められた部分が多い。
明治时代初之前一段时期的日本,没有限制同性恋的法律,在某些场所和状况下,男色的行为几乎堂而皇之展开着。另一方面,女性间的同性爱则多数都被隐秘着。
■唐に渡った空海が日本の同性愛文化の発祥?
■远渡大唐的空海是日本同性爱文化的发祥?
当時の唐の都長安では、ゲイ風俗が大流行しており、男娼もたくさんいた。日本から唐に渡った空海ら留学僧たちは、これこそ最先端のカルチャーだと感激。江戸時代に書かれた本には、今から1200年ほど前の平安時代に空海が唐から同性愛の文化を持って帰ってきたという記述があります。
当时唐朝的首都长安,非常流行同性恋文化,也有很多男娼。从日本远渡大唐的空海一行人们,感慨着这才是最先端的文化与教养。在江户时代的书中,记载着距离今天1200年前的平安时代,空海从大唐带回来的同性恋文化。
・男色は「女人禁制」の掟があった僧の間で大流行
・男色在有着“禁止女色”规则的僧侣间大为流行。
古くから寺院においては、女人禁制の掟があり、女性と性交渉をすることは禁じられていましたが、同性間での性交渉を禁じる掟というものはなく、同性を性的対象と見なすことには隔たりがなかった。僧侶たちは、稚児と呼ばれる少年に身の回りの世話をさせました。この稚児が僧侶たちの性欲の捌け口になったのです。
自古以来寺庙的僧侣们都有着不近女色的规定,虽然与女性的性交被禁止,但是同性间的性交却没有被明文禁止,因此将同性作为性对象并没有障碍。僧侣们由唤作“稚儿”的少年照料日常生活,这个稚儿也是僧侣们性欲的出口。
・そして貴族へも波及した
・于是,这股风潮也波及到了贵族
平安時代ではほとんどすべての貴族がバイセクシュアルであり、政治のうえで「夜の関白」「男のおぼえ」などのやっかみが飛び交うほどに必要不可欠なものだった。
在平安时代几乎所有的贵族都是双性恋,甚至政治上出现“夜之大男子”、“男宠”等醋水乱飞的情况。
■後の武家社会にも大きな影響を与えた
■之后给武家也带来了很大的影响
武家社会では女人に溺れるということは武門にある者として「恥」という考えがあったらしく(特に鎌倉幕府成立後)、進んで男同士の関係を持った。
在武家社会中,沉溺于女人会被认为是武门世家的“耻辱”(特别是在镰仓幕府成立后),因此主动发展男性之间的关系。
そこには年長者が年少者を愛し保護する一方、年少者は年長者からの愛を受けて忠義を尽くす…という支配的権力関係があったとされています。
那时候年长者爱惜保护着年少者,另一方面,年少者承蒙着年长者的爱而尽忠尽义…他们之间还有这这样的权力支配关系。
歴史に名を残している武将の9割以上は、男色の経験があったらしい。織田信長なら前田利家や森蘭丸、徳川家康なら井伊直政、伊達政宗なら片倉小十郎…
留名历史的武将中9成以上貌似都有过男色的的经验。织田信长和前田利家、森兰丸,德川家康和井伊直政,伊达政宗和片冈小十郎…
■江戸時代に入ると庶民の間でも男色が浸透。そして奇妙なルールまで出現…
■进入了江户时代之后,庶民之间也渗透着男色的风气。甚至还出现了奇妙的规则…
江戸時代になると、衆道と呼ばれ、庶民の間でも流行するようになった。元禄時代の遊び人の間では、「色道の極みは男色と女色の二道を知ること」という風潮があったほどである。
进入了江户时代之后,男色被称之为众道,在庶民间也流行了起来。甚至在元禄时代游戏人生的人们之间,形成了“色道的极致是知晓男色与女色这两方面”的风潮。
井原西鶴は『男色大鑑』という短編集を著している。「奥のほそ道」で有名な江戸時代前期の俳人、松尾芭蕉(1644‐1694)にも男色趣味があったことが知られています。
井原西鹤是《男色大鉴》这本短篇集的著者。以《奥之细道》而十分有名的江户时代的俳人松尾芭蕉(1644‐1694)也有爱好男色的兴趣,这是人尽皆知的事实。
「衆道」では相手に愛を疑われた時、身体を張って、愛の証明をせねばなりませんでした。たとえば、小刀を膝に突き刺して見せたりしたんですね。
在“众道”中,如果被对方怀疑心意的真假,就必须挺身证明这份爱的存在。比方说把小刀刺向膝盖来证明给对方看。
この手の自傷系をふくむ、愛の証明を「心中立て」と呼びました。愛の証明のためには、死すら恐れたりはしません(このため、「衆道禁止令」が幕府から出されたことも)。
包括这种自伤系行为,他们将爱的证明称之为“心中立て”。如果是为了证明爱,就算是死也在所不惜(因为这个规则,幕府颁发了“众道禁止令”)。
■江戸幕府3代将軍徳川家光の男色ぶりは凄まじかったらしい
■江户幕府3代将军德川家光的男色情况可谓可怕
父・秀忠と、生母お江与は家光よりも次男の国松を可愛がったため、両親の愛を知らぬまま育つ。乳母である春日局に育てられ、祖父・家康によって後継ぎは家光と宣言される。幼い頃から母と乳母が醜い争いをしていたため、女性嫌いとなり、男色にふけるように。
由于他的父亲・秀忠和生母江与比起家光更加宠爱次男国松,他便在不知双亲爱为何滋味的状况下被养育长大。他被奶妈春日局抚养长大,祖父・家康宣布继承者为家光。从小就看尽母亲与奶妈间丑陋的纷争,变得讨厌女性,沉溺于男色中。
男色にふけるあまり女色を疎かにし、世継ぎが中々、生まれず、周囲をやきもきさせたといいます。
由于沉迷于男色中而疏忽了女性,导致迟迟后继无人,周围的人们可是焦虑不堪。
そのため春日局が必死になって「誰でもいいから側室にして」と色々な女を集め、それが大奥になりました。子供ができたら「役目は終わった」とばかりに女をお払い箱に。
因此春日局拼死进谏“无论是谁都好,请设立一个侧室!”并召集了众多女人,这便是“大奥”,如果有了孩子,“作用就到此为止了”,然后再将女人解雇。
江戸時代も後期となると衆道は衰退の一途を辿っていった。
到了江户时代的后期,众道走向了衰落的道路。
■幕末…そして時代は明治へ。キリスト教の影響で男色はタブー扱いされるようになった
■幕末…然后到了明治时代。受到了基督教的影响,男色被当做一项禁忌来对待。
幕末期は維新の中心となった薩摩藩や土佐藩の藩士などを中心に衆道は息を吹き返した。また1864年(元治元年)5月20日の近藤勇の書簡には新選組局内で「しきりに男色が流行している」と記されいる。
幕末时期以维新派为中心的萨摩藩和土佐藩的藩士们又燃起了众道的星星之火。并且,在1864年(元治元年)5月20日近藤勇的书简中发现了新选组局内“频繁流行男色”的记载。
日本で同性愛の性的肉体関係がタブーだと思われ始めたのは明治以降に入ったキリスト教の影響。
在日本,同性爱之间的肉体关系被视为禁忌是明治以来受到了传入本土的基督教的影响。
ローマ・カトリック教会において、同性愛行為は自然法に反する罪深い(sinful) ものとされる。西洋において「男色は文化レベルが低く、野蛮である」という考え男色は富国強兵を目指す日本にとって、時代遅れのものとなってくる。「男が男に惚れるなど言語道断」という感覚が広まっていきました。
在天主教中,同性爱的行为被视为违反自然的深恶的罪。在西方认为,“男色是文化程度低、野蛮的表现”,对于以富国强兵为目的的日本来说,已经是旧时代的病垢了。渐渐“男性迷上了男性,简直荒谬绝伦!”的认识在全国扩散开来。
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