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在日语中竟然也能感受到日本人的世界观

2017年11月23日 10:43:45来源:日语学习网
导读:你知道吗,日语中竟然隐藏着日本人的世界观,惊奇吧,接下来小编就和你一起来感受感受这种类日本历史文化,而且从中你可以了解到来自日本历史的一种变迁,还可以顺便普及日本发展史,极大增长你的见识。

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古代より受け継がれる日本固有のことば、「大和言葉」。現代でも使われている言葉の語源をたどることで「大和言葉」の世界観が見えてきます。

“大和语言”是从古代传承下来的日本固有的语言。即使是现代,通过追溯语言的词源可以看出“大和语言”的世界观。

今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、著者の伊勢雅臣さんが、古代日本人の世界観とはどんなものであったのかを、さまざまな例から分かりやすく解き明かしています。

在这回的免费电子杂志《Japan on the Globe-国际化日本人培养讲座》中,作者伊势雅臣给我们举了各种各样的例子,简单明了的介绍了古代日本人的世界观是什么样的。

大和言葉の世界観

大和语言的世界观

目と芽、鼻と花、歯と葉、耳と実(み)、頬と穂(ほ)。顔と植物の各パーツが、まったく同様の音を持つ言葉で呼ばれているのは、偶然だろうか?

目和芽、鼻和花、齿和叶、耳和实(み)、颊和穗(ほ),脸和植物的各部分发音完全相同,这是偶然么?

万葉学者の中西進氏の説によれば、これらは語源が共通 しているからだと言う。漢字にすれば、まったく別の言葉のように見えるが、古代の日本人は、顔のパーツも植物のパーツも、「め」「はな」「は」「み」「ほ」と同じように呼んで、同じようなものと考えていたようだ。

据万叶学者中西进先生称,这是因为这些词语的语源是共通的。虽然汉字写的完全不一样,但是古代的日本人,不管是脸上的器官还是植物的器官,都分别发作「め」「はな」「は」「み」「ほ」的音,他们一直认为那是相同的东西。

たとえば、鼻は顔の真ん中に突き出ている。同様に「花」も、植物の枝先の先端に咲く。そして岬 の端も「はな」と呼ぶ。薩摩半島の「長崎鼻」がその一例である、さらに「しょっぱな」「寝入りばな」など、物事の最初を表す意味も持つ。

例如,鼻子是脸部器官中突出的部分,同样“花”也是,它开放在植物枝头的前端。而且,海角的边缘也读作「はな」。萨摩半岛的「長崎鼻」便是一个例子。还有「しょっぱな」(最初)「寝入りばな」(刚入睡)等,都有表示事物最初的意思。

「からだ」とは、幹をあらわす「から」に接尾語の「だ」がついたものである。「から」が植物にも使われた例は、稲の茎の「稻幹(いながら)」、芋の茎の「芋幹(いもがら)」などの言葉に残っている。

「からだ」是由表示树干的「から」加上结尾词「だ」组成的。「から」被用于植物的例子还有水稻的茎「稻幹(いながら)」,薯的茎「芋幹(いもがら)」等。

古くは手足のことを「枝(えだ)」と呼んだ。「手」「足」と呼び分けるようになったのは、奈良時代あたりからである。

古代,称手脚为「枝(えだ)」,从奈良时代开始才把手和脚分开来叫。

もう明らかだろう。我々の先祖は、植物も人体も同じものだと見なしていたのである。すべては「生きとし生けるもの」なのだ。こうして古来の大和言葉の源を辿っていくと、古代日本人の世界観が見えてくる。

已经明白了吧,日本的祖先认为植物和人是一样的。一切都是“活在这个世界上事物”。这样一来,追溯古代大和语言的源头就可以看出古代日本人的世界观。

咲く、幸い、盛り、岬、酒

咲く、幸い、盛り、岬、酒

花が「咲く」のと、人の「幸い」も同根である。「幸い」は「さきはひ」で、「さく」と「はひ」に分かれる。「さく」は「咲く」である。ものがそのピークの状態になることを意味する。ちなみに「花盛り」の「盛り」も、「さか」+「り」で、花が咲きあふれているピークの状態を意味する。

开花的「咲く」和形容人的「幸い」也是同源的。「幸い」的古日语是「さきはひ」,被分成「さく」、「はひ」。「さく」是「咲く」,意思是事物达到它顶峰的状态。另外,「花盛り」的「盛り」也是由「さか」+「り」组成的,意思是花盛开的顶峰状态。

岬も「み(美称)」+「さき」で、海や湖に突出した形状の土地を指す。お酒の「さけ」も、酒を飲むことで、気持ちが高揚し、幸福感を抱く。

岬也是由「み(美称)」+「さき」组成的,指凸向海和湖形状的土地。酒的「さけ」也是如此,喝酒之后,情绪高涨,满满的幸福感。

「はひ」は「延ふ」で、ある状態が長く続くことを指す。「味はひ」は、「あの人の言葉には味わいがある」と言うように、「長く続く味」を意味する。

「はひ」写作「延ふ」,指某种状态长时间的持续。「味はひ」在「あの人の言葉には味わいがある」中就有“长久持续的味道”的意思。

とすると、「さきはひ」とは「咲く」という花の満開状態が「延ふ」、長く続く、ということになる。心が花開くような嬉しさが、持続的に続く状態と考えれば、古代人がこの言葉に込めた語感がよく伝わってくる。

也就是说,「さきはひ」是花盛开状态的长久延续。心中像花儿盛开一样高兴,从这种持续的状态来看,古代人把包含在这个词语中的语感很好的传达了出来。

現代人は「幸福」とは何か、などと抽象的に考えるから、訳が分からなくなる。「さきはい」とは「心の中に花が咲きあふれて、長く続く状態」と知れば、それはお金や地位などの外的物質的なものに関わりなく、純粋に心の有り様であることが分かるだろう。

现代人的幸福是什么呢?如果从抽象的角度来考虑的话,就会变得意味不明。如果知道「さきはい」是指“心中的花儿盛开,长久的状态”的话,就会明白这无关于金钱和地位等的外在物质,而是心中纯粹的状态。

人と草木の一生

人和草木的一生

草木が春に芽ぐむことを「萌える」と言う。「萌える」は「燃える」と同じで、火が盛んに起こった状態を指す。「仕事に燃える」「燃える恋」などと、人が心の中で情熱を燃やしている状態にも使われる。人が最も燃える時期が「青春」だが、同様に春に草木の生命力が盛んに燃えて、新しい芽を出すのが「萌える」である。

草木在春天发芽的状态叫作「萌える」。「萌える」和「燃える」类似,指的是火燃烧的状态。「仕事に燃える」「燃える恋」等也会使用于人的心中热情高涨的状态。人生中最燃的时期是「青春」,同样,春天的时候草木的生命力是最旺盛的,所以新芽萌生的状态就是「萌える」。

この後に、前述の「花盛り」を過ぎて、実が「なる」時期が到来する。「なる」は人にも使われて、現在でも「大人になる」「人となり」などと使われる。「なる」とは、そのものの生命力が発現された状態を指した。

之后,跳过上述的「花盛り」(花盛开),来到実が「なる」(结果实)的时期。人们经常使用「なる」,即使是现在也经常在「大人になる」(成为大人)「人となり」(为人、本性)中使用,指这种生命力被发现的状态。

やがて人も草木も老いて、生命力を失っていく。植物では水分を失ってしおれる事を「しなゆ」と言った。「ゆ」は自然にそうなる事をいい、「しぬ」は「萎(しな)える」、水分を失って、くたっとなった状態を指す。「しぬ」は、人間の「死ぬ」にも使われているが、本来の意味は命が絶えた状態ではない。

再不久,草木枯萎,失去生命力,这种植物失去水分的状态叫作「しなゆ」(枯萎)。「ゆ」指自然发生的这种事情,「しぬ」是「萎(しな)える」,指失去水分、蔫儿的状态。「しぬ」经常被用于人的「死ぬ」(死亡),但是它本来的意思并不是指生命停止的状态。

植物の命が絶えるのは「枯れる」である。完全に水分が失われた状態を指す。「枯れる」の古語は「離(か)る」と言い、人間で言えば、魂が体から離れることを言った。

植物的生命不再延续叫做「枯れる」,指的是完全失去水分的状态。「枯れる」的古语是「離(か)る」,用通俗语言来说的话是灵魂离开身体的意思。

体から離れた死者の魂は、「ねのくに(根の国)」に戻ると古代日本人は考えた。「ね」は母なる大地である。そこから、人も草木もまた「たね」を育み、「め」を出し、「はな」を咲かせていくのである。

古代的日本人认为死者的灵魂是会回到「ねのくに(根の国)」(黄泉)。「ね」指的是母亲大地。从那里孕育了人 、草木、种子,诞生萌芽然后开花。

「生きる」「息」「命」

「生きる」「息」「命」

「生きる」「息(いき)」「命(いのち)」は、どれも「い」で始まっている。「いきる」の古語は「いく」であるが、これは息(いき)と同根である。息をすることが、生きることである。だからこそ、息をする器官である「鼻」が、顔の中心だと考えられたのである。

「生きる」「息(いき)」「命(いのち)」的发音都是以「い」开头的。虽然「いきる」的古语是「いく」,但和「息」(いき)是同源。人有呼吸就是活着,因此一般认为负责呼吸的器官“鼻子”是脸的中心。

「いのち」の「い」は、「生く」「息」と同じである。そのほかにも、「い」は「忌(い)む(慎んで穢れを避けること)」「斎(いつ)く(神などに仕えること)」など、厳かな意味を持つ。

「いのち」的「い」是和「生く」「息」相同的。除此之外,「い」还有「忌(い)む」(谨慎的避讳)、「斎(いつ)く」(侍奉神祗)等比较严肃的意思。

「いのち」の「ち」は不思議な力を持つもの、すなわち霊格を表す言葉で、「おろち(大蛇)」「いかづち(雷)」「ちち(父)」などに使われている。生けるものの体内を流れる「血」も、不思議な力の最たるものであった。

「いのち」的「ち」是指拥有不可思议力量的东西,也就是表示精神水平的语言。用于「おろち(大蛇)」「いかづち(雷)」「ちち(父)」等。生物体内流淌的「血」也是一种极其不可思议的力量。

この「ち」に「から(そのもの)」を合わせた言葉が「ちから(力)」である。「ちち(乳)」も、生命を育む不思議なちからを持った存在である。

这个「ち」与「から(そのもの)」组成了词语「ちから(力)」(力量)。「ちち(乳)」也是一种拥有孕育生命的不可思议力量的存在。

したがって、「いのち」は「忌(い)の霊(ち)」とでも言うべき、忌み尊ぶべき霊力である。そのような尊厳ある「いのち」が、草木や人間に宿っていると、古代の日本人は考えたのである。

因此,「いのち」应该说成「忌(い)の霊(ち)」,表示应该避讳尊敬的灵力。古代的日本人认为,这样尊贵的生命是寄于草木和人之中的。

「ねがふ」「いはふ」「のろふ」

「ねがふ」「いはふ」「のろふ」

求婚することを古代の日本語では「よばふ」と言った。「よばふ」とは「呼ぶ」+「ふ」で、「ふ」は継続を意味する。恋人の魂を「呼び続ける」ことである。

“求婚”在古日语中叫作「よばふ」。「よばふ」是由「呼ぶ」+「ふ」组成的,「ふ」由继续的意思,所以整体的意思为持续呼唤恋人的灵魂。

同様に「妻子の幸せを願う」などと言う時の「願う」は「ねぐ」に「ふ」がついた言葉で、「ねぐ」とは「和らげる」という意味。神様の心を和らげて、何度もその加護を願うことだった。神職の一つに「禰宜(ねぎ)」があるが、これは神の心を和ませて、その加護を願う仕事を指す。

同样「妻子の幸せを願う」的「願う」是「ねぐ」加上「ふ」,「ねぐ」的意思是「和らげる」(使柔和,缓解)。感化神灵的心,多次祈求神灵保佑。「禰宜(ねぎ)」(祢宜)是神职的一种,它是工作是感化神灵之心祈求神灵保佑。

同様に、「いはふ」は「言う」を続けること。神様を大切にする気持ちを繰り返し言うことで、これが「斎ふ」という言葉になった。

同样,「いはふ」是持续「言う」(说)的意思。是一种怀着对神灵的敬重之情反复说的状态,最后形成了词语「斎ふ」(向神祈祷)。

「のろふ」は、「のる」+「ふ」で、「のる」を続けることである。「のる」は「祝詞(のりと)」、「名のり」などに、残っているように、「重大なことを告げること」を意味する。転じて、神様の力を借りて、相手にわざわいをもたらそうとするのが「のろふ」である。

「のろふ」是由「のる」+「ふ」组成的,是持续「のる」的状态。「のる」像「祝詞(のりと)」、「名のり」一样,有“告知重大事情”的意思。然而,「のろふ」还有借助神灵的力量,想要给对方带来灾祸的意思。

日本の神様は、それぞれに支配する範囲が決まっていて、時おり、その地に降りてきて、人間の「ねがひ」「いはひ」「のろひ」などを聞いてくれる。その神様に出てきて貰うために、笛を吹いたり、囃したりし「待つ」ことが「まつり」だった。その動詞形が「まつる」である。古代日本人にとって、神様とはそのような身近な具象的な存在であった。

日本神灵各自所支配的范围是决定好的,有时候它会降临到自己所掌管的地区问问人们的「ねがひ」「いはひ」「のろひ」。为了让神灵能够降临世间,人们会吹笛子、拍手叫喊,来「待つ」(等)神灵,这就是「まつり」(祭祀仪式)。它的动词形式是「まつる」。对于古代的日本人来说,神灵就是身边的一个具体化的存在。

「天(あめ)」「雨(あめ)」「海(あま)」

「天(あめ)」「雨(あめ)」「海(あま)」

そうした神様の元祖が「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」である。「天(あめ)」の「御中(みなか)」にいる「主(ぬし)」である。「天(あめ)」は「海(あめ)」でもあった。「天」は「海」のように青く、そこからときおり「雨(あめ)」が降ってくる。そんなことから、古代日本人は天には海と同じような水域があると考えたようだ。

这些神灵的鼻祖是“天之御中主神”。是上天的主人。「天(あめ)」也是「海(あめ)」。天空像海一样蓝,天上有时会下雨,由此古代的日本人认为天是和海一样的水域。

水が大量にある所を「海(うみ)」と言う。「うみ」は、昔は「み」とも言った。「みず」の古語は「みづ」だが、これも同じく「み」と言った。一面にあふれることを「みつ(満つ)」と言う。

人们把有大量水的地方称之为「海(うみ)」。「うみ」在古代也叫做「み」。虽然「みず」的古语是「みづ」,但是同样会说「み」。人们还把充满状态叫做「みつ(満つ)」。

この「みつ」から「みづみづし」という言葉も生まれた。「瑞穂(みずほ)の国」とはわが国の古代の自称であるが、水を張った水田に青々とした稲穂が頭を垂れている姿は、古代日本人のふるさとの原景なのだろう。

从「みつ」衍生出了「みづみづし」这个词。「瑞穂(みずほ)の国」是我们国家在古代对自己的称呼,描绘了水田上青青的稻穗低着头的姿态,这应该是古代日本人生活的景象吧~

和歌は日本人の固有な韻文 に対する自負と誇り

和歌是日本人对固有的韵文所持有的自负和自豪

以上のような大和言葉で歌われるのが、和歌、すなわち「日本の歌」である。和歌は神様を褒め称えたり、恋人に思いを伝える時に使われる特別な形式であった。

用以上的大和语言所唱的歌叫作和歌,也就是“日本之歌”。和歌是在称赞神灵、向恋人表达思念之情的时候使用的特别形式。

「いのち」という言葉に根源的な生命力を感じたり、また「恋」という言葉に、相手の魂を乞う、そのような濃密な語感を込めて、和歌は神や恋人に思いを伝えるものであった。

从「いのち」这个词中可以感受到灵魂深处的生命力,「恋」这个词中含有渴望对方灵魂这样浓厚的语感,所以和歌是向神灵和恋人表达情感的方式。

そのような和歌を集めた歌集として、現存する最古のものが万葉集である。雄略天皇(第21代、5世紀後半)の御歌から始まり、農民や兵士など一般庶民の歌まで収められたまさに「国民歌集」であるが、その中に使われた外来語は16語くらいしかない。

这种收集和歌的现存最早的歌集是万叶集。从雄略天皇(第21代、5世紀後半期)的御歌开始,把农民、士兵等普通百姓的歌也收录在其中的正是《国民歌集》,这其中使用的外来语只有16个。

万葉集は、歌い手としては天皇から一般庶民に至るまで区別なく登場させているが、外来語は排除し、「大和言葉」で表現された思いを集めようとする意図が徹底されているのである。

万叶集中从天皇到普通百姓都作为歌手登场,彻底的表现了不用外来语而用大和语言来表达情感的意图。

現存する日本最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』は、万葉集とほぼ同時期に編纂されている。その時期に我が先人たちは中国から入ってきた漢詩に対抗して、外来語を排して大和言葉だけの和歌集を編んだ。

日本现存最早的汉诗集《怀风藻》几乎是与万叶集在同时期编纂的。那个时期日本的先人反对从中国传来的汉诗,不用外来语,只用大和语言来编纂和歌集。

日本語は歴史的に中国や西洋の概念用語も積極的に取り入れつつ、最先端の科学技術論文にも使われている現代的な論理的言語となっている。と同時に、その根源にある大和言葉は太古の日本人の世界観・人生観をそのままに伝える詩的言語である。

日语随着历史的发展,也渐渐地积极引进中国和欧洲的概念用语,成为了一种被使用于最先进的科学技术论文中的现代伦理语言。与此同时,作为根基的大和语言是一种原原本本的传达太古时期日本人的世界观、人生观的富有诗意的语言。

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