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日本历史:平氏和源氏分别指什么?

2017年01月16日 13:56:04来源:坦途网资讯站
导读:你想要知道日本历史的内容吗?现在坦途日语考试网将为大家分享,因此让我们一起来看看详细的内容是什么吧。

平清盛が属していた平氏、鎌倉幕府を開いた源頼朝や源義経が属していた源氏。名前は知っているけど、平氏と源氏がそもそも何を意味しているのかわからない人も多いのではないでしょうか。今回は、平氏と源氏を説明します。

平清盛(日本平安时代末期著名武士,在平治之乱中击败源氏,掌握了日本政权。)所属的平氏以及开启了镰仓幕府的源赖朝和源赖经所属的源氏。虽然知道名字,但是却不知道平氏和源氏究竟是什么意思的人恐怕很多吧。这次就为大家解释平氏和源氏的意义。

■皇統であった平氏と源氏

■曾是皇族血统的平氏和源氏

平氏と源氏は、もともと天皇を始祖とする由緒ある家系でした。平氏と源氏は、貴族として中央で出世する者、地方へ下って名士となる者がいました。そのなかから、皇統という血筋のよさを武器に、武士団の指導者としての地位を確立する者が出てきたのです。やがて地方武士の集団がいくつも乱立し、武士の集団間での抗争がはじまります。平氏と源氏はそうした争いを平定しながら、下級武士の集団をまとめて支配権を拡大していき、地方武士の二大勢力となっていったのです。

平氏和源氏曾经都是有以天皇为鼻祖的渊源的家族。平氏和源氏,有作为贵族在中央政府出人头地的人,也有下达到地方成为名士的人。在他们当中,也有以皇族血统的优势为武器,确立了作为武士团领袖的地位的人。不久之后,地方武士私自建立了一些集团,武士集团之间的争斗开始了。平氏和源氏平定了这些战争,将这些下级武士集团结合起来扩大了支配权,成为了地方武士的两大势力。

しかし、その後も武士の大規模な反乱はおさまらず、ついに朝廷が介入します。朝廷は、平氏と源氏を含む有力武士を国司に任命し、それぞれの地方をおさめさせました。こうして平氏と源氏は朝廷とのつながりで武士団を組織し、政治にも関わるようになりました。さらに時代が進むと、地位を上げて上級武士へと出世し、源氏は東国を、平氏は西国を押さえ、二大派閥になっていったのです。

但是在此之后也没能平定武士的大规模造反,终于朝廷开始介入。朝廷任命包括平氏和源氏的有能力的武士为国司,让他们到各自的地方去平定造反。就这样,平氏和源氏因为朝廷的关系组织起了武士团,变得和政治也有所关联。时代进一步发展,他们提高了地位,成功跃升为上级武士,源氏控制了东国,平氏控制了西国,成为了两大派。

■平氏の台頭

■平氏的兴起

平氏は恒武天皇の末裔で、高貴な家柄でした。しかし、藤原氏全盛の時代に不過な扱いを受け、平清盛の祖父正盛の代までは諸国の受領(地方長官)でしかありませんでした。中央政界とは縁がなく、内裏への昇殿も許されていなかったのです。その平氏が中央政界へ進出する契機となったのは平清盛の父忠盛の活躍でした。

平氏是恒武天皇的后裔,具有高贵的家世。但是,在藤原氏全盛的时代受到的待遇一般,直到平清盛的祖父全盛的时代他们也不过只是诸国的首领(地方长官)而已。与中央政界无缘,就连到宫殿朝圣也是不被允许的。成为让这样的平氏家族能够向中央政界发展的机会的是平清盛的父亲·忠盛的活跃。

父忠盛の跡を継いだ平清盛は、ほんの短期間のうちに中央政界での地位を築き上げました。政治家としての能力に秀でていたことも出世の理由のひとつですが、それ以上に保元·平治の乱における功績が大きかったのです。1156年、鳥羽上皇が亡くなると、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟対立が表面化します。兄である崇徳上皇は弟の後白河天皇を退位させ、自らの第一皇子重仁親王を皇位につけて院政を敷こうと画策していました。これに対し、後白河天皇は退位を拒否し、崇徳上皇に反発して見せた。

追寻着父亲·忠盛的足迹的平清盛,仅仅在短时间内就确立了在中央政界的地位。作为政治家的能力十分优秀也是他出人头地的理由之一,但是最重要的是在保元·平治之乱中取得的巨大功绩。1156年,鸟羽上皇去世,崇德上皇和后白河天皇的兄弟对立局面变得表面化。兄长·崇德上皇让弟弟·后白河天皇退位,谋划着让自己的第一皇子重仁亲王登上皇位,自己作为太上皇替天皇执政。对于此,后白河天皇拒绝退位,对崇德上皇进行反抗。

皇位をめぐる争いに、藤原摂関家の相続争い、さらに源平による武家の棟梁争いが加わり、内乱へと発展していきました…敗者となった崇徳上皇方についたのは、摂関家では藤原忠実·頼長父子、源氏では源為義·為朝父子、平氏では清盛の叔父忠正でした。勝者となった後白河天皇方には平清盛がつき、藤原摂関家からは忠実の長男の関白忠通、道憲、源氏からは為義の長男義朝が味方しました。そして、後白河天皇方は、白河殿に夜襲をかけ勝利しました。

围绕着皇位进行的争斗,藤原摄关家(是藤原北家嫡系的五族)相继争斗,进而再加上对源平两家的武家重臣的争夺,开始朝着内乱发展……追随后来成为失败者的崇德上皇一方的是,摄关家的藤原忠实·赖长父子、源氏的源为义·为朝父子、平氏的清盛的叔叔忠正。追随着后来成为胜者的后白河天皇的则是平清盛,藤原摄关家的忠实的长男·关白忠通、道宪、源氏的为义的长男·义朝。后来后白河天皇一方夜袭白河殿取得了胜利。

■明暗が分かれた平氏と源氏

■黑白明了的平氏和源氏

平治の乱前、源義朝は藤原信頼と共謀し、御所を襲って後白河上皇と二条天皇を幽閉し、山中に逃れた信西を捕らえて殺害し、都を制圧しました。藤原信頼の行為は、もはや信西との権力闘争ではなく、謀反でした。この報を聞いた平清盛は京へ戻ると、表向きは源氏に従うふりを見せながら内部工作を行ない、二条天皇を女装させて幽閉先から逃がすことに成功し、さらに後白河上皇をも奪い返しました。

平治之乱之前,源义朝和藤原信赖共谋,袭击皇宫将后白河上皇和二条天皇幽禁,将逃往山中的信西捉拿并杀害,控制住了都城。藤原信赖的这个行为,已经不是和信西的权利争夺,而是谋反。听到这个消息的平清盛返回京都,一边表面上假装顺从源氏,一边进行着内部工作,让二条天皇男扮女装,成功从幽禁地逃脱,进而夺回了后白河上皇。

二条天皇から源氏追討の宣下を受けた平清盛は、反攻を開始し、御所の門を固めた源氏を鎮圧して勝利をおさめました。敗れた藤原信頼は殺害され、源義朝は知多半島の野間で味方に裏切られ風呂場で殺害されました。三男の源頼朝は、伊豆へ流罪となりました。しかし、この後、助けたはずの源頼朝に平家は滅ぼされてしまうのです。

接受了二条天皇下达的追拿源氏的命令的平清盛,开始了反攻,镇压了防御皇宫大门的源氏,取得了胜利。失败了的藤原信赖被杀害,源义朝则在知多半岛的野间被同伴背叛,于浴场被杀害。三男·源赖朝被流放到伊豆。但是,在此之后,平家却被应该帮助过的源赖朝所灭。

■勝者となった源氏一族の内紛

■成为胜者的源氏一组的内部纠纷

壇ノ浦の合戦で平氏を滅ぼし、勝者となった源氏ですが、身内関係はボロボロでした。木曾義仲と源頼朝は、同じ源氏でありながら対立関係でしたし、頼朝と義経の兄弟対立など、源氏一族には内紛が絶えませんでした。内紛を繰り返したことで有力な後継者がいなくなり、源頼朝の直系は滅んでしまったのです。武士の源流となった平氏と源氏。平氏と源氏を意識しながら、歴史を見るとさらに楽しめるのでは?

虽然源氏在坛之浦合战中剿灭了平氏成为胜者,却因为内部原因变得破烂不堪。木曾义仲和源赖朝本都是源氏却变成了对立关系、赖朝和义经的兄弟对立等,源氏一族的内部纠纷不绝于耳。不断重复着内部纠纷,变得没有有力的继承者,源赖朝的直系渐渐灭亡。作为武士的起源的平氏和源氏。一边认识着平氏和源氏,一边回顾历史的话不是更有趣吗?

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